相撲の東と西の違いは?意味はあるの?








こんにちは!

今回は相撲の素朴な疑問について考えてみます。

それは、東と西について。

取組は東と西で行われるし、番付も東と西に分かれています。
どうして東と西で、南や北ではないのでしょうか?

知っているようで知らない、わかっているようでわからない、相撲における東と西のお話をしていきます。

相撲はどうして東西に分かれている?

その疑問を解決するには、まず相撲の長い歴史を振り返る必要があります。
時代は平安時代にまでさかのぼります。

平安時代の宮中行司に節会相撲(せちえすもう)というものがありました。
簡単に言うと、宮廷内で開催される天覧相撲です。
その際、天皇は北を背にして南を向いてお座りになるのが慣わしでした。
そして力士は天皇の左右から登場し、相撲を取ったのです。
天皇から見て左側が東、右側が西になります。
それが現在まで脈々と相撲の伝統として受け継がれているわけです。

例えば、相撲では正面、向正面という言い方をしますが、正面とは北で、向正面はその逆方向なので南です。
テレビ中継の画面は正面、つまり北からの映像が基本で、画面に向かって左側の力士が東方、右側の力士が西方になります。
行司も常に正面を向いています。

ちなみに、国技館では、天皇陛下をはじめとする皇族方が相撲観戦するロイヤルボックスも、北を意味する正面側に設置されています。

つまり、テレビ中継では、平安時代以降の天皇と同じ視線で相撲を見ていることになるわけです。
そう考えると、相撲の長い歴史と伝統を改めて実感しますね。








番付の東西には意味がない?

また、番付も東と西に分かれています。
番付が東西に分かれるようになったのは、江戸時代の初めだと言われています。
その当時、力士は出身地によって東西に分かれていました。
滋賀県(当時は近江国)より東の出身力士を東方、西の出身力士を西方としていました。
そして、東西対抗の団体戦のような形で取り組みが行われていたそうです。

これを現在に当てはめると、茨城県出身の高安は東の大関、大阪府出身の豪栄道、兵庫県出身の貴景勝は西の大関に固定されるわけです。
白鵬らモンゴル出身力士はどちらになるんでしょうね(笑)。

こうした東西制は昭和の初期まで続きました。
東方同士、西方同士の取組はなく、番付の上下も東西別に行われていました。
ただし、東方と西方の力の均衡が崩れそうな場合は、東西間で力士の移動があったそうです。
プロ野球のトレードみたいなものですね。

その後は系統別総当り(同じ一門に属する力士の対戦はなし)→東西制復活→系統別総当り復活という流れとなり、昭和40年1月場所から現在の部屋別総当り方式が導入されました。

こうした経緯があって、現在の番付は前の場所の成績をもとにして作られています。
番付作成に当たって力士の出身地は関係ありませんし、東から西、西から東に番付が移るのも当たり前。
東方同士、西方同士の対戦も組まれ、その場合は番付下位の力士が反対側に回ることになっています。
取組前の土俵入りは東西の花道からそれぞれ入場しますが、番付の東西とは関係ありません。
その日の取組で東方に入る力士が東から、西方に入る力士が西から登場するのです。

というわけで、現在の番付の東西は、昔の東西制の名残のようなもの。
本来の意味がもうないわけなので、実はあまり意味がないと言えるかもしれませんね。








東は西より格が上!


相撲の世界では、東が西より格上とされています。
例えば、2019年夏場所では、東の横綱は白鵬、鶴竜は西の横綱です。
番付は前場所の成績順で決まるので、春場所で優勝した白鵬が東の横綱になっているのです。
夏場所では白鵬は休場しているので、次の名古屋場所の番付は鶴竜が東の横綱になります。
このように、同じ番付でも東方が半枚分上とされているのです。
ですから、同じ番付で同じ成績であっても、次の場所では東方の力士の方が番付が上がるのです。

では、なぜ東の方が格上なのでしょうか?
それは、先に説明したように、天皇が座る北から見て、左を東、右を西と位置づけたことに関係があります。
当時は左が陽、右が陰とされていて、左の方が優位でした。
ですから、左にあたる東が格上になっているのです。

これも相撲の長い歴史と伝統を感じさせる話です。








まとめ

いかがでしたか?

相撲における東と西の関係をご理解いただけたでしょうか。

日本で対抗戦がある場合、東西対抗があって南北対抗がないのも、相撲の東と西の影響とも言われています。

こうした知識を得ておくと、相撲を見る目がまたまた変わっていきそうですね。